「意味のないことに無理やり意味を見出す」人を頻繁に目にする。
例えば会社の仕事。
「くだらない仕事にみえるかもしれないけど、自分なりの付加価値を出すようにすればきっと君のためになる。そうしないのなら、君はこの仕事にかけた時間を無駄にすることになる」と社会人1年目の時に数えきれないほど言われた。
当時担当した仕事に、僕は全く価値を見出せなかった。大半の業務がそれ自体に意味もなければ、その仕事をこなすことで自分に何かが蓄積されるものでもなかった。そうした作業のどこに「付加価値」を出せばよいのか、この仕事を通して何が自分の糧になるのかさっぱりわからなかった僕は、ただ乾いた返事をするしかなかった。
今振り返ってみても、あの1年は本当に無駄だったとしか言いようがない。意味の欠如した、際限なく不愉快な時間だった。商いの世界で成功したい願望はこれっぽっちもないので、まあそんなものかと思う。それでも多くの人に、「1年目の頑張りがあったから今の君がある」というようなことを言われる。僕はただ首をかしげるばかりだ。
一つの物事から多くを吸収しようとする姿勢は大いに結構。でも、どうみたって何にもならないものからは何も吸収できない。養分のない干からびた土地で植物は育たない。
少なからぬ人がこの「何にもならないこと」を極端に恐れている気がする。自分のやることなすこと必ず「意味」が付与されるべきであり、自分を成長させるものであるべきで、「無駄」なことは一ミリも許されないかのよう。そんな風にして今日もいろいろな人が、自分のしている仕事に「価値」を見出そうとする。しかし、多くの人のしている仕事なんて、正直あってもなくても変わらない。「エッセンシャルワーク」なんてそう多くはない。
なんというか、「いま自分は無駄なことをしてるな。こんなこと、自分のためにもならないし、誰のためにもならないな、ハハハ、ちくしょう」くらいの気持ちでいてはいけないのかと思う。少なくとも僕は意味のない行為に「意味」を見出すのがなんとも情けなく、大いに苦痛を感じる。そんなことをするくらいなら、「無価値な行為」を睨みつけて、中指を立て続けたい。そして自分に「何にもならないこと」を強制した輩に、僕の貴重な人生の時間をないがしろにした輩に呪詛の言葉を吐きけたい。
「意味のないこと」に懐柔されて得られる心の平穏は、少なくとも僕には不要だ。