n年後に駐在するゲイ

いつか海外に飛ばされるゲイが生きた証

翻る、訳す。

外国の優れた文学作品を読もうとするとき、原書に手を伸ばす人はそう多くない。その作品の言語を一から習得するのは骨が折れるし、時間がかかりすぎる。文学作品を読めるくらいの語学力を習得する頃には、その作品への興味を失ってしまうことと思う。

そんなわけで、大抵の人は「翻訳」を通して海外の文学に触れる。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアなどの欧米圏の作品はもちろん、韓国や中国をはじめとしたアジア圏、ラテンアメリカや中東、アフリカといった地域の文学作品を日本語で楽しむことができる。有名な作品については、一つの作品に対していくつかの翻訳のバリエーションがあり、それぞれの訳の違いを楽しむのもいい。

僕は決して海外文学贔屓ではないのだけれど、面白そうだなと思って手に取るのは大抵海外文学だ。クルコフ、ウリツカヤ、ドストエフスキーレールモントフ、ハクスリー、モームブラッドベリアチェベ、クンデラ、チャペック、テッド・チャンなどなど、国も時代も文学のスタイルも違う作品を「翻訳」という形で読みむさぼってきた。

話は脇道に逸れるが、常日頃考えていることがある。どんな分野でもいい、「受け手」ではなく「作り手」に回ってみたい。世界のあちこちに散らばっている膨大な量のコンテンツを、ピンクの生命体のように吸い込み続けるのも悪くはないけれど、なんというか、これでいいのかとたまに思ってしまう。いや、いいも悪いもないのだけど、多分その現状に満足できていないのだ。

そこで、「翻訳」というアイデアが浮かんだ。小説を構想して執筆するのはなんだか難しそうだけど、それなりにわかる言語が日本語以外にあるので、翻訳ならなんとかなるのではないか。0から1を生み出すことは無理でも、1を1’にするのであれば、努力すればできるんじゃないか。そんな軽いノリから、翻訳の個人レッスンを受け始めた。

今訳しているのは19世紀の作家の短編なのだけど、これがもうべらぼうに難しい。まず、文章の理解にえらく時間がかかる。この関係代名詞はどの単語にかかっているのか、この動詞には意味が複数あるけどどの意味を採用すべきか、この人称代名詞は誰のことなのか、えっこの単語とこの単語はもしかして並列の関係にあるの?など、考えることが無限にある。構造が複雑な文章だと、一文を訳すのに10~20分かかるなんてザラにある。

加えて、文章を理解できたとしても、それにぴったりの日本語が浮かんでくれない。原文の訳語をただ並べればいいというわけではもちろんなく、原文の意味から逸れないことは絶対だとして、いかに自然な日本語、こなれた日本語にするかということに頭をひねらなくてはならない。翻訳においては、原文を理解する力以上に、日本語に落とし込む力が重要なのではないかと思う。前者は勉強すれば何とかなるけれど、後者はこれまで培った語彙力や言葉の運用能力が求められる気がしていて、後天的な学習でなんとかなるかと言われると、疑問が残る。物心がついてから今に至るまでどれだけの本を読んで、そこに書かれている言葉を自分のものにしたか、どれだけの事象を、世間の言葉ではなく自分の言葉で記述しようと努力したか、「言葉」に関するこれまでの総力が問われている気がしてならない。ひねり出した訳文を見て、自分の「総力」のなさに打ちひしがれながら、訳文をこうでもないああでもないと修正する。

この本の原著者のそれには到底及ばないことは重々承知だけど、「生みの苦しみ」とはこういうものかと思う。もはや修行である。A4用紙8枚ほどの短編でこんなにひーひーしている僕からすれば、日本語訳の合計ページ数が2500を超えると言われているトルストイの『戦争と平和』を訳した先生は、もう狂気の沙汰としか思えないし、絶対に足を向けて寝れない。光文社古典新訳文庫の『戦争と平和』を今まさに読んでいるところだけど、いったいいつになったら、僕はあそこまで美しい日本語に訳すことができるようになるんだろう。乗り越えるべき障壁のあまりの高さにめまいがする。

今のところ、翻訳という営みの9割はしんどいものなのだけど、それでも「楽しい」と思える瞬間がある。例えば、複雑な文章の構造を理解できたとき。月並みな表現ではあるが、霧が晴れたような気持ちになる。アハ体験ってそういえばあんな感じだった。ほかには、われながらいい訳が思い浮かんだとき。1ページに2回くらい「これだ!」という訳が思い浮かぶ。いや、あれはもう思い浮かぶというより「降ってくる」に近い。人間より上位の存在からの啓示。とはいいつつ、これは今まで、少なくない量の本を読んだおかげだと思う。僕の語彙の泉は空っぽではないようで、少し安心する。

この1割があったから、挫折せずに最後まで作品を訳し通すことができたのだと思う。最後の一文を訳し終えたときの達成感というか解放感はすさまじかった。このあと訳文の確認にまた膨大な時間を費やすので、これで終わりというわけではないけど、とりあえず一区切り。でかい仕事を終えたときのような感覚がある。翻訳は修行であり、労働でもあるようだ。でも、労働と違って翻訳には楽しさがある。外国語の文章を味わう楽しさ、己の語彙をフル活用して訳文をひねり出す楽しさ。これからも、細々と続けていこうと思う。死ぬまでに一度本を出せたらいいなと、ぼんやり考えている。「作り手」としての自分の像が、ほんの少し明確になった。