年末は努めて本を読むようにしている。2021年の暮れ、何を読もうかと考えながら書店をふらふら歩いていたら視界に飛び込んできたのが、アメリカの作家レイ・ブラッドベリの代表作『華氏451度』。
NHK『100分de名著』でも紹介されたことのあるこの本を、いつか読みたいと思いながらもずるずると先延ばしにしていた。おそらく今日買わなかったら一生この本の表紙を開くことはないと自分に言い聞かせ、一冊手に取りレジへ向かう。
大まかなあらすじ
本の所持を禁止された世界。隠していることが分かれば昇火士(ファイアマン)が本を燃やしにやってくる。主人公のモンターグもまた、ファイアマンの一人だった。自分の職業に高い誇りを持っている彼だったが、近隣に越してきたクラリスという変わった少女に出会うことで、「焚書」が、人間の思考の産物を消し去ることが当たり前になったこの世界に疑問を抱くようになる。
だいたいの話はこんな感じ。
本を読むことが好きでたまらない僕からしたらディストピアもディストピア。
「読書」を奪い取られたこの世界で娯楽となるものは、「ラウンジ」や「巻貝」と呼ばれる、聞き手にとっておそらくは何の意味も持たない音声・視覚情報を延々と流す装置や、超高速で動く車といったもの。
これらに共通するのは、「人間に考えさせない」という点である。
僕たちの生活を振り返ってみても、テレビの音の奔流にさらされながら、あるいは高速道路を運転しながらハイデガーの「世界-内-存在」は何たるかを考えるなんてことは到底できない。
そう、この世界では「人間の思考力」が徹底的に奪い去られてしまっているのだ。
もし、人間の考える力に応じてその人が持つ脳のしわの深さが決まるとすれば、この世界の住人のそれは、本文の表現を借りるならばあたかも「蝋でできた人形の肌のように」一本たりとも線のない艶々しいものに違いない。
なぜ本を燃やすようになったのか
ディストピア的世界は概して、巨大な組織権力により生活の隅々まで支配された超管理社会である。
ロシアの作家ザミャーチンの『われら』は、「単一国」とよばれる架空の国家が国民の食事から性行為までを徹底的に監視する世界を描いた、ディストピア文学の金字塔のような作品だ。
上からの圧力はディストピア小説の主要なテーマの一つだ。
『華氏451度』の世界で本が燃やされるようになったのも国家権力が何か言いだしたからかと思えば、そうではない。
驚くべきことに、焚書が始まったきっかけは大衆にある。
テレビやラジオといった、テクノロジーの飛躍により生まれたニュー・メディアは次々と大衆の心をわしづかみにした。そして、そこで語られれる内容は単純化されていく。
内容を複雑にすれば多様な考えが生まれる。そして多様な考えは論争を、衝突を生む。このような事態を回避すべく、コンテンツの枝葉を切り落としてあたかも一本の線であるかのように見せてしまう。
また、社会のスピードが加速するにつれて、コンテンツはぎゅっと圧縮される。古典的名著は15分の要約としてラジオで放送され、それすらもさらに短くなって2分間の紹介コラムになり果てる(この本が『100分de名著』で取り上げられたのは何たる皮肉だろうか)。
要約や概要、短縮が世の中を埋め尽くしていき、複雑なものは忌み嫌われるようになる。
「複雑なもの」の代表格である本は、かくしてこの世から消し去るべきものとなり、ファイアマンが誕生した。
これらはすべて、大衆が望んだことだ。
これ、本当に1950年に書かれた本ですか。
この本を読み終わったときに真っ先に思った。「これは本当に70年前に書かれた本なのか」と。
だってだって、現代社会のありようにあまりにも酷似しているから。
書店に行けば『1日1ページでわかる○○』、『△△を10時間で学ぶ』というタイトルの本が氾濫している。
1日1ページで何がわかるというのだろう。どうして10時間でなにか1つのことを学んだような気になれるのだろう。
「より短く、よりわかりやすく、より簡単に」
このようなスローガンの元で作られたコンテンツをいくら摂取しても知の深化にはつながらないと思うのは僕だけだろうか。
「ファイアマン」という職業が新設されるのも、そう遠い未来のことではないかもしれない。
思考と幸福
主人公モンターグの上司・ベイティーはファイアマンの仕事について、「人間を不幸にする”複雑なもの”から人びとを守る重要な仕事」と語る。
何も教えないことが重要だと、考えさせないことが重要だと。
確かに、何も考えない、世界の複雑さに目を向けるという発想が根本から欠如しているであろう人から不幸のにおいは漂わない。
でも、それでいいの?と思う。
与えられた刺激を楽しむだけで、何にも思い煩うことなく死んでいく人生を僕は相当不気味に感じる。
物事を関連付けて思考して、その複雑性に打ちのめされつつまた考える。
その過程で、心に引っかかるもの、怒りを湧きあがらせるもの、悲しみを引き起こすものが出てくる。
そうしたマイナスの感情もすべてひっくるめてまた考えていくことでしか見えないものがあるのではないかという気がしている。
脳にしわ1つできないような人生を、僕はどうしても受け入れる気にならない。