「これが幸せだと錯覚して生きていかないといけないんだろうな」
昨日、電車で隣に座っていた女性二人の会話からこんなフレーズが聞こえてきた。
長らく会うことのできていなかった友達に会うことができて、ほんのり暖かいものを胸に抱えて家に向かっていた土曜日の夜。
頭に冷や水を浴びせられたような衝撃だった。
あちこちに諦念をにじませた決意。真理を知っているのはマックにたむろする女子高生だけだと思っていた。
思うに、ほとんどの人は自分の理想通りの生活ができていない。
多かれ少なかれ、誰しもが現状に不満を抱えていると思う。
その不満が無視できるくらい小さいものであればそれは結構。
でも、常に意識せざるを得ないくらいの大きさのものだったら。
「自分は満たされていない」そんな感覚が頭にこびりついてしまっていたら。
留学先で知り合った駐在員が「大人になったら、自分の現状にプラスポイントを見出していくことが大事。良く言えば置かれた場所で咲く、悪く言えば妥協だね。」というようなこと言っていた。
大人って大変なんだな、くらいの感想しか浮かばなかったような気がする。あの頃は、自分が大人になっている光景なんてまるで想像ができなかった。
あの駐在員ももしかしたら、自身の現在の在りようを幸せだと錯覚することで何とか生きていたのかもしれない。
「幸せである」ということはどういうことなんだろうと時々考える。
そしてそれは「理想と現状の距離が限りなく近いさま」ではないかと思う。
となると、幸せになる方法は2つある。
①「現実」を「理想」に近づけるか、②「理想」を「現実」に合わせてチューニングするか。
子どもから大人になるにつれて、①の方法をとる人は少なくなっていくような気がする。
①にはいつか限界が訪れる。
それは、生まれ持った性質の限界を考慮せずに、高すぎる理想を掲げてしまうから。
まあ子どもの頃から自分の行く末をなんとなく見通すなんてこと、嫌すぎるしあってはいけないと思うからそれでいいと思う。
自分の背丈の何倍もある壁を乗り越えようともがいていくうちに、自分の限界にぶち当たって②の方法にシフトしていく。
「「理想」を「現実」に合わせてチューニングする」方法にもいろいろあると思うけど、多くの人が冒頭の女性のように自分に暗示をかけて、ごまかしごまかし生きていく。
自分の人生のあまりのみじめな有様をまっすぐに見据えて生きていくなんてこと、大抵の人間にはできっこない。
「錯覚の幸せ」は自分の心を守るための、もろくて儚い鎧なんだ。
隣に座っていた女の人たちはもちろん知り合いでも何でもない。
でもなんだか、やりきれない思いがこみ上げてきた。
あの人たちが、自分の理想に限りなく近い人生を手に入れられればいいなと思う。
それができないのであればせめて、純度の高い、自分の心からの願いと見紛うような錯覚の中で生きていってほしいなと思う。